2010年8月12日木曜日

反響続々。

ご無沙汰してます。カイチョー・ツチヤです。

皆さん、先の日曜、「噂の!東京マガジン」内の『噂の現場』見て下さいましたでしょうか?

取材が急遽入る、という話は地元の卒業生より聞いてましたが、まさか、あんなに時間を割いて放送してくれるとは、、
こういっては何ですが、民放らしく、バラエティ的な要素(卒業生であるオードリー・若林君がでてくれたり)もありましたが、

分かりやすく纏めてくれるとこは、さすがプロです。

翌日には、テレビ朝日系「ス-パーJチャンネル」でも放映。10日の東京新聞でも、大々的に紹介されました。

「保存を望む会」のページは、アクセスが急激に伸び、10000を軽々突破〜。応援メール、署名も続々頂いています。
 ツイッター(♯akashi_hozon)も東京マガジン放送日は、アクセスランキングに入るくらい、いったそうで。。。


 建物の保存に限らず、例えば、ダムの建設、飛行場の設立など、全国でもいろいろと地域同士の対立や自治体vs地域民という対立の構図が浮き彫りになっていたりしますが、かつて、テレビの前で自分が視聴者だったときは「なんで、もっと早く分からなかったんだ?立て替えとか誘致とかって」って、疑問に思ってましたが、

 今回の「明石保存活動」に関わって、よく分かりました。

「あまりに情報公開が少ない」ということです。前に散々書いた通り、地元の近隣の方々でもよく「取り壊し」の事実を知らない。
たしかに、何か大きいことを進める際には、色々な意見や利害が絡まり、時として全く物事が進まなくなることが多々生じます。
 どこかで、決断をして遂行しなければならないこともよくわかります。

 とはいえ、やはり、今回のケースは「情報公開が少ない。少な過ぎる」のです。

 手前味噌っぽいですが、こうした活動を行わなかったら、明石小学校が重文クラスであり、建築史・地域史的に見ても大変貴重なものだと、多くの方が分からなかったのでは無いかと思ってます。色々の方々のご尽力でこの事実が分かりましたが、ワタクシは卒業生のくせに知りませんでした。自分が在校している前の貴重な歴史も、同様です。卒業生にお話しして頂けるまで、知りませんでした。

 そうした事実を「取り壊したい」側は知っていたのでしょうか?

 解体に向けた作業が着々と進んでいるようですが、まだ、間に合うのです。

 予算を組んだから、終わり、では無く、貴重な歴史的価値のあるもの、教育にも役立てることが出来るもの、地域の歴史を後世に伝えるものを残して下さい。。。。。。。

2010年8月10日火曜日

明石小学校のすごいトコ④

またしてシミズですー

いよいよ8月も10日です、、、
新聞テレビwebニュース散々取り上げられていただき
ものすごく署名もふえたというのに。
何も音沙汰なく10日です、、、


でも。でも、言い続けます。

今回の明石小学校のすごいトコは・・・


明石小学校は戦火を避け戦中を乗越えた!


この季節になると、日本の忘れてはいけない歴史として
様々な形で取り上げられる戦争時代のエピソード。
経験あるなしにかかわらず、日本人の心に刷り込まれている記録。

わたくしは戦争を経験しておりませんが、
明石小学校は第二次世界大戦の渦中で東京大空襲も見てきました。
そして、聖路加国際病院の隣にあったおかげで
戦火も免れ現役でがんばっているのです。
すぐ隣町は一面の焼け野原になっていた中、です。

戦中、戦後の明石小学校でのエピソードは無数にあり、
聖路加病院に入りきれなかった外国人兵士を受け入れていたり、
GHQの管下におかれてチョコレートを貰った先輩のお話など
歴史小説の舞台になりそうなほどです。
今日は東京大空襲の際、明石小学校に避難に来たお父様の
お話をされた方にお目にかかりました。
泣きそうでした。


そんなわけで、明石小学校が復興小学校の中でも
保存状態が良く歳月を重ねてきたのですね。
その凛とした佇まいは、多くの方の支持を得て
たくさんの署名が集まっているのもうなずけます。


すでに改築予定ですので仮校舎も出来上がっているようですが
ちょっと普通ではないな、とさえ感じるその圧倒的な意匠的建築が
本当に壊されちゃうのかな?なんだか信じがたいのです。

お向かいに在る、築地教会と一緒に町を形づくっていたのに。
外国人居留区の町並みを残すプライドを持つ明石小学校。
戦後65年経つ8月、、このものすごく風化の早い時代の中で、
今既に85年を迎えることなるかもしれない存在。


「OLD BUT NOT BAD」


今一度考えて欲しいです。


投稿者シミズ

2010年8月2日月曜日

卒業生のことば。

ご無沙汰してます。カイチョー/ツチヤです。

暑いっすね。。。
で、卒業生の思いも、まだまだ熱い!そんな小咄です。。。

我々の明石卒業生世代(昭和40年代後半)には、「親子2代明石」「親子孫3代明石」「親・兄弟みんな明石」多いんです。

きっと他の世代の方々もおおいでしょうな。。
で、先日、同級生のお母さんで、ズッと中央区在住の方と色々と話をする機会がありました。当然「明石LOVE」で、この活動も色々ときにかけて下さってます。

その方の姉も明石。2人の子供も明石。で、ずっと明石小学校の学区内に住んでます。

で、お約束ですが、このかたも「明石取り壊し」を知りませんでした。何度でもいいますが、区の「近隣などの同意を得た」ッていうのはどの辺を指すんですかね?
ちなみに、この方、近隣にも署名等のお願いでいろいろ動いて下さったんですが、近隣の方、見事に知りませんでした。と。

この方のお姉さんも、明石の話を聞いて、当時のことをすぐに思い出してくれたそうです。

「窓が大きくて、階段も広くて、避難訓練もやったけど、3分くらいで校庭に全生徒が出て行かれるんだよね」と。
我々のやったことと、覚えている記憶と全く同じ。。。。。

こういう繋いで来た思い出が、消えるかもしれないのです。ココを良く見て下さっている方はお分かりかと思いますが、断じて「懐かしい」だけで我々もやっている訳ではないのです。
もちろん、そんな気持ちもありますが、、、

 これを書いていると、ふと、NHKの番組で、「世界音楽紀行」だと思いますが、、、ウィーンの街。

「ベートベンが交響曲〜を書いた家」「ベートベンが遺書を書いた家」。。。全てが残っています。後の世に伝えられ、大事にされ、現在の街の中に、今を行きている人の中に、一緒にいるのです。

残す。繋げる。伝える。こういうことではないかと思います。

いいたくないですが、残された時間は少ないのかもしれません。

愚行ではなく、区の英断を期待します。